一簾月色

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ピートはうなずいた。

ピートはうなずいた。それは彼の哲学と完全に一致していたのである。彼は頭を優雅に垂れ、すぐにジンジャー・エールをピチャピチャやりだした。
「できればの話だがね、ピート」といい添えて、ぼくもガブリと一くち飲んだ。ピートは答えもしなかったが、メスにクヨクヨしないことなんぞ、彼にとってはなんの造作もなかったのだ。彼は天性の独身者タイプだったのである。
 真正面のバアの窓越しに、さっきから三通りに変わる広告サインが見えていた。まずそれは“財産は睡眠中に創られる”ではじまり、“苦労は夢とともに消える”と変わって、それが消えると、こんどは二倍ほどもある大文字で、
 となるのだ。
 ぼくは、何も考えぬままその広告をながめていた。冷凍睡眠《コールドスリープ》というものについてはたいていの人と同じように、知っているようでもあり、知らないようでもあった。もちろんぼくは、H・G・ウエルズの古典的SF『冬眠者めざめるとき』ぐらいは、保険会社が宣伝用に無料配布をはじめる以前から読んでいたし、週に二、三回は、朝の郵便の中に入ってくる保険会社のダイレクト・メールで見もしたのだが、ろくに気にも止めていなかった。冷凍睡眠《コールドスリープ》など、ぼくには、口紅の広告同様、縁もゆかりもなかったからだ。
 第一、そのころよりちょっと前までは、縁があろうがなかろうが、費用がぼくの手に負えなかった。冷凍睡眠《コールドスリープ》は、貧乏人には高嶺の花だったのだ。そして第二には――自分の仕事に生き甲斐を感じている上に金が儲かりだし、さらに儲かる見込みがあり、美人と恋をしていて、まもなく結婚しようとしている男が、なにを好きこのんで、半ば自殺に等しい冷凍睡眠《コールドスリープ》などに関心を持つはずがあろう。
 不治の病に冒されて、いずれは死を免れないが、二十年後には医学が進歩して救われる見込みがあるというような男なら――そしてその男が、幸いにして、医学が彼の病気に追いつくまでの二十年間の冷凍睡眠《コールドスリープ》の費用を弁ずるに足る金を持っている場合なら――冷凍睡眠《コールドスリープ》を試みるのも悪くはあるまい。あるいは、火星へ宇宙旅行に行きたいと願っている男が、彼の人生というフィルムのひとコマを端折《はしょ》ることによって、火星行宇宙船の旅費を購いうると考えた場合――これまた、きわめて論理的な試みといってよかろう。事実、当時巷間に流布されていた噂話にも、結婚したての若夫婦が、市役所からウェスタン・ワールド冷凍睡眠保険会社《コールドスリープ・アシュアランス》の冷凍場《サンクチュアリ》に直行し、惑星間定期宇宙船《インタプラネタリ・スペースライナー》で蜜月旅行《ハニムーン》に出かけられる時代が来るまで起こさないようにといいおいて、無期限の冷凍睡眠《コールドスリープ》に入ったという話が伝えられていた。ぼくは信用しなかった。おそらく、これは保険会社の細工した宣伝用のでっちあげで、その若夫婦は、あとから、変装をし名を変えて、保険会社の裏口からこっそり脱け出したのではないか。こともあろうに、楽しかるべき新婚の夜を、冷凍のサバよろしくコチコチに凍って過ごすなんぞ、いくらなんでも真実とは受けとりにくかったのだ。
 つぎなるは、例によって例のごとき直截《ちょくせつ》な物欲への訴えだ。保険会社の謳い文句に曰く“財産は睡眠中に創られる”あなたの貯蓄が、眠っているあいだになん倍にもなる! かりに、あなたが五十五で、隠退後の年金が月額二百ドルだとしよう。そこで冷凍睡眠《コールドスリープ》に入り、なん年か眠って目が覚めると、あなたは依然として五十五のまま、しかも年金は千ドルになっていようというわけだ。いかがですか? しかも、あなたの目を覚ます輝かしい新時代が、あなたに、いまよりはるかに健康な老後と長寿を約束し、したがってその月額千ドルも、いまの数層倍使いでのあるものになるであろうことはいうを俟《ま》たない。さあどうだまいったか、というわけで、さまざまの保険会社が、いずれ劣らぬ“論議の余地なき”数字を提示して、当社の投資信託こそは他社にくらべて絶対早く、絶対多く利潤をあげると、たがいにしのぎを削っていたのである。
 だが、こんな宣伝も数字も、いっこうにぼくの気をそそることはなかった。
 ぼくは五十五ではなかったし、もちろん隠退したいわけもなく、おまけに一九七〇年に、なんの不満もなかったのだ……。
 つまり、ごく最近までは。
 いまはちがった。
 いまのぼくは、否応なしに――いやだったのだ――隠退を強いられた身の上だったのである。 そして、蜜月旅行《ハニムーン》に出かけるどころか、場末のバアに坐りこんで、ただ心を麻痺させるがためにスコッチのグラスをかたむけている――かたわらには、新妻ならぬ傷だらけの牡猫――ジンジャー・エールに病的な嗜好を持つ猫をはべらせて。いま好みのことをいうならば、ぼくはこいつをジン一ケースと交換して、のこらず飲み倒してやりたかった。
 だが、一文なしでだけはなかった。
 ぼくは上衣のポケットを探り、一通の封筒を取り出して開いてみた。中身は二つ。ひとつは、ぼくがいままで持ったこともない金額の小切手一枚。そしていまひとつは、文化女中器《ハイヤード・ガール》会社の株券だった。二つとも、少し手垢がついていた。彼らにそれを手渡されてから、肌身離さず持ち歩いたためだった。
 そうだ。冷凍睡眠《コールドスリープ》という手があった。スコッチのグラスをもてあそびながら、いつしかぼくは考えていた。
 この悩みを、眠って忘れてしまえばどうだ? 外人部隊に参加するよりは快適だし、自殺するよりいくらか清潔だ。それに、ぼくの人生をこうまで踏みにじった連中や思い出も、完全にぼくから遮断してしまえる。いままで気がつかなかったが、これ以上のことはないではないか!
 ぼくは、金持になることなどに、たいした興味は持たなかった。だいいち、ぼくの持っている金で、長期の冷凍睡眠《コールドスリープ》の費用と、未来で目が覚めたとき役に立つほどの信託預金をするのに足りるかもわからなかった。しかし、もう一つの点はぼくの気持をそそるに充分だった。ままならぬ浮世に一時おさらばして、新世界に再び目を覚ます。もし保険会社の宣伝文句を信用すれば、おそらくはいまよりずっとましな世界になっているはずだ。もちろん、もっと悪い世界である場合もあり得る。が、ともかく、いまの世界とちがった世界ではあるだろう。
 絶対確実なちがいがあった。冷凍睡眠《コールドスリープ》に入れば、ぼくは、ベル・ダーキン――もしくはマイルズ・ジェントリイもしくはその両方――しかしとくにベルの、いなくなった世界が来るまで、なにも知らずに眠っていることができるのだ。ベルが死んで、土の中に埋められてしまえば、ぼくも彼女を忘れることができよう――彼女がぼくにした仕打ちを忘れ、彼女を心の外に追いやって――。彼女が、空間的にわずか数マイルの近くにいるという事実に、心を蝕まれることもなくなるのだ……。
 ところで、そのためには何年眠ればいいだろう? ベルは二十三だ――少なくとも、自分ではそういっている(ぼくはいつか彼女が、ルーズヴェルトの大統領時代を知っているとうっかり口を滑らしたことがあるのを思いだした)。ともかく、二十代なのは間違いあるまい。とすれば、七十年も眠れば、彼女も一片の死亡記事になってしまう。大事をとって、七十五年ということにしようか。
 そう思ったとき、ぼくは最近の老人医学《ジェリアトリクス》の長足の進歩を思いだした。日ならずして、人間の寿命が延び、百二十五歳までは正常な生活ができるようになるという話が伝えられていた。とすると、少なくとも百年眠らなければならない勘定だ。保険会社が、果たしてそんなに長い申込みを受けつけるかどうかは疑問だった。
 そのときぼくは、おそらくスコッチの酔いが気持よく身体を温めてきたせいだろう、ある残酷な名案に思いあたったのだった。なにも、ベルが死ぬまで眠る必要はなかったのだ。むこうが婆さんになってしまったとき、こっちがまだ若々しい青年であれば充分――いや、充分以上の復讐になるではないか。女の鼻をあかしてやれる程度にこっちが若ければよいとすると――三十年がいいところか。
 腕に、ぼたん雪がぱらりと落ちたような感じがした。ピートが片足をかけていた。「モーア」
「喰いしんぼうめ」ぼくはいいながら、受け皿の中にジンジャー・エールを注いでやった。ピートは短いお預けで感謝の意を表すると、たちまちぴちゃぴちゃやりだした。


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