一簾月色

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俺が内緒でこれの検査

行くか」
「第二にだ」
 と、指を折って数え立てた。
「第二にS先生が危い。今年中は無理だろうと思う」
 野村耕平が、小説家として一人立ち出来るようになる前から三十数年私淑して来たS先生が病床にある。病名は色々ついているが、八十八の高齢で、要するに老衰らしく、御本人自身が、
「もう何もしないでくれ」
 と、生きる意志を放棄しておられるような趣があった。
「もしS先生が亡くなられたら、あとあと直接の問題もさることながら、きっと、すぐ全集の話がおこって来る。これの編纂《へんさん》は、僕として、いい加減には出来ないことだからね」
「それから、第三が例の長篇だ。ひどくむつかしいものになりそうだよ、この仕事は」
 春子はちょっと笑顔を見せた。上の空の亭主の関心が、自分の方に向いたので、満足したらしい。
「そうね。よく分ってます。でも、案外わたしの方が何でもないかも知れないし」
「何を言ってるんだ」
 耕平は、ちょっと舌打ちをした。
「自分で実際、どうなんだい。何でもない可能性の方が強いのか?」
「だから、それが分からないのよ」


 次の日、三人の子供を学校へ送り出したあと、春子は身支度をして、ひとり病院へ受診に出かけて行った。
 長男の誠が、中学の初年から足かけ四年間、慢性腎炎という厄介な病気で療養生活を送った病院で、東京の西郊、地下鉄の終点に近いところにある。誠は、本来大学二年に在学中でいい年なのに、この長患いのため、未だ高校にとどまっていた。
 妻の留守中、電話番をしながら、耕平は色々空想をした。
「俺は北京の老大人《ろうたいじん》じゃないしなあ」
 三年前急逝した兄が、昔、北京に在勤中、中国の老富豪の家へ招かれた。設けの宴席につこうとして、ふと兄は、近くの部屋で赤児の泣き声がしているのに気づいた。不審な表情を見せたせいだろう、老大人が、
「おいで、おいで」
 と、手ぶりで兄を別室へ請じ入れた。ゆりかごの中で、生後三、四カ月の赤ん坊がしきりにむずかっていた。
「まさか」
 と、兄は思った。
 あるじの富豪は、堂々とした立派な人間だし、顔の色つやもてらてらと福々しいが、なにしろもう八十幾つの老爺で、白いあご髯《ひげ》を長く垂らしている。
「お孫さんですか?」
 聞こうと思った時、相手は悠揚せまらず、にこにこしながら、「我的女孩子《ウオーデニユーハイツ》(私の女の子です)」と、自分の胸を叩いて見せたという話である。母親はむろん、第三夫人か第四夫人だったにちがいない。
 耕平は中国の大人とはちがう。第二夫人も第三夫人も持ち合せがない。しかし、「困った」とか「世間態が悪い」とか思う一方、心のどこかで、面白いような嬉しいような気もしないではなかった。
「それでも、やっぱり困る」
 と、彼は思った。
 自分の血が清潔かどうか、自信が持てないのだ。つまり、身にその種の覚えがある。こんな齢になって、障害のある赤ん坊や悪い遺伝質を持った赤ん坊が生れて来たら、どういうことになるか。
「少くとも、俺が内緒でこれの検査をすますまでは、絶対困る」
 一番いいのは、春子が、
「やっぱりまちがいでした。内科の外来へまわされて、胃のお薬もらって来たわ」
 と言って、帰って来てくれることであった。
 落ちつかぬ思いで、度々時計を眺めていると、電話が鳴った。
 急いで取ったが、相手は聞いたこともない土地会社の男で、伊豆の別荘地に建つマンション購入のおすすめをやり出した。
「うちにそういう電話をかけて来ても、無益だから、やめなさい」
 ぶっきら棒に言って、耕平は切ってしまった。
 春子がソーセージだの豚肉だの菓子だの、ついでの買物をして、病院から帰宅した時には、二時が少しまわっていた。
「どうだったんだ?」
「おめでたですと言われました。今、二カ月の終りですって。順調で、異常は何も無いそうよ」
 春子は、一種誇らしげな様子で、畳の上へ坐りこんだ。
「昔の人は一般に子だくさんでしたから、あなたぐらいの年齢での出産も、ごく普通のことだったんです。それが近ごろ、みんな、早く子供を生むのをやめてしまうものだから、珍しがられるんですが、羞《はずか》しく思うことなんか、少しもありません。神様の御祝福がありますよって」
「そうかね。神様の御祝福ね」
 病院は、プロテスタントS派教会の付属で、戒律がきびしく、医者も看護婦も敬虔《けいけん》な信者である。
「でも、坂井先生や看護婦の原さんや、みんなにおめでとう、おめでとうって言われて、やっぱり少し羞しかったけど」
「それで、おろす相談は全くしなかったのか?」


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